株式会社 都市環境研究所の設立の頃とさまざまな出会い

2009.12.25 土田 旭 

2010年で都市環境研究所を設立して40年になる。その前後のことを思い出すままに書きとめてみよう。

1970年6月に本郷に事務所を構えたが、場所は興医会ビルという本郷通りで2番目に古い(?)といわれていた建物であった。その5階の半分、16坪であったが、実はその数年前から地区設計研究会という名目で仲間と借りていた場所を皆の同意を得て、看板の書き換えをしたのであった。

設立発起人に土田、矢嶋、土肥(博至)、若林(時郎)、曽田(忠宏)、松川(淳子)、石黒(俊夫)、小林(篤夫)ら、それまでの研究会の仲間と、大学内外でいろいろお世話になった高山(英華)、吉武(泰水)、川上(秀光)の諸先生にも発起人をお願いした。また、土田の同級生の二宮(公雄)、研究室の後輩ではあるが事務所経営では先輩の土井(幸平)にも発起人になってもらった。

事務所のスタッフは、土田、矢嶋のほか、事務に平田嬢(後に吉川仁夫人)。矢嶋は地域研究会のときから常駐していたが、久米設計の所員で半ば仕事、半ばは勉強のためと称していたが、久米の座りが悪かったようだ。準スタッフといっては何だが、もともと地区設計研究会の面々はほとんど毎日、夕方になると現れた。筑波研究学園都市の計画チームの実質的作業場で、日中は閑散としているが、夜はさまざまな顔ぶれが集まってくる。公団や大学研究室、さらに移転対象機関の世話役であった文部省や科学技術庁、大蔵省営繕などの担当者も時折、顔を見せた。半常駐だったのは公団の土肥、若林、石黒、大学の研究室から曽田、松川、時折り内田(雄造)ら、それに大学院生たちも、東大に近かったこともあり、ちょくちょく顔を見せていた。小出、南條、河野、吉川らである。大学院の研究室に所属しながら、なにかと仕事を手伝ってくれていた。大学は、大学紛争の直後であまり居心地がよくなかったのだろう。また、矢嶋の同期でもある東海大の田丸先生の伝手でバイトとしてほぼ常駐していたのが東海大の学生の平野、篠崎たちであった。会社勤めをしていた連中もよく顔を出していた。出前をとりながら談論風発で、筑波なり、事務所の仕事なり、それ以外のつまらないこと、たとえばスケートとスキーの滑りは同じ原理か否かといったようなどうでもよいことを論じたりして、それに飽きると各々勝手に仕事を始めるのは9時近くになってからであった。その中で土肥さんは、筑波の仕事と同時に事務所の初仕事として受けていた広島の仕事にも関心を持ち、手伝ってもらえた。筑波の手伝いで都市デザイン的実務をしていた小野や篠崎のあとにバイトで来ていてそのうちスタッフになった松縄なども、この頃の出たり入ったり組である。こうしたなかで、小出が正規のスタッフになることを決断し、1ヵ月後に高山が明治大の神代研から追い出されて(?)入社した。こうして明治グループがつくられていく。ただ、大学院に籍を残していたので、給料は満額にしないというルールがここでつくられた。

話は飛ぶが、今の瀬川ビルに移るのは阪神大震災のあと一年足らずの頃で、今から13、4年前になった。興医会ビルには足かけ30年近くいた訳で、初めて引っ越しということになる。興医会ビルを借り、さらに近所のビルに会議室を借りたりして頃合いであった。地震でまず倒壊しそうなビルからようやく開放された。流石に興医会ビルは今では賃貸マンションに建て変っている。

さて、事務所の仕事であるが、初仕事は【 広島都心基本計画 】で、研究室での一年先輩で主に都市基本計画を研究していた森村道美さんの紹介、推薦によりやることに決めたものである。広島都心基本計画とは、広島市中心部の商業環境が大きく変っていくだろうとの見通しのもとに、中心部再生計画をたてようとするものであった。広島県と広島市、その両者をつなぐ役目をもって、広島商工会議所の三者が、広島市内の卸売業者がまとまって市外(五日市市埋立地)へ移転する事業が軌道に乗ってきたのを契機に、市内の商店街を活性化する手当てを講じようというのが基本的趣旨であった。そのためには、各商店街の意向を知ると同時に、商店街の特性、立地と都市計画上の課題を結びつける必要があり、市の企画調整課を中心に商業振興と都市計画が共同で動くことになった。

森村さんとは、土田が大学をやめ事務所をつくってそこでやることを条件にしていたが、高山先生を委員長にという地元の要請を先生に伝えにいき、土田がその仕事をすると伝えたところ、高山先生の雷が落ちた。森村さんが土田が大学をやめることを内緒にしていたためである。大学の研究室が委託業務を見境なしにやるのを学生が批判していたことに土田も賛同していたこともあって、言行不一致とのお叱りを受けたのであったが、当然大学をやめ事務所をつくってやるつもりであることを話すと、よしそれならば委員長を引受けようということになったのであった。

10以上の中心部商店街振興組合にヒアリングをするところから始める一方、県・市・商工会議所のワーキンググループから商業のみならず中心部の動向について情報を集め、各地区を子細に調査することを繰返した。また、東京で調達したバイトをしていた学生若干名がフィールドノートをもって、いずれそれを鳥瞰図におこすためのスケッチをとることをした。卒業後、住宅公団に入社し、地域再生がらみの事業を地元市区スタッフとともにいくつもこなしていたが、われわれが仕事を受ける側になったこともあり、いずれにしても諸場面で活躍することになった平野君がここでも頑張った。

検討を進めるうち、商業再開発だけではなく、中心部の戦略的検討を、商業再開発だけではなく、中心部の戦略的アクションプランがおぼろげに浮かんできた。対象とする商店街に加え、大学や工場等の移転による跡地に加え、公営住宅の建て替え計画や、業務関係の再開発構想も含めて都市型住宅型事業を展開することで中心部を包囲する図柄である。但し大学の移転は、将来の中心部形成には好ましくないという判断をもったが、東広島移転は土田にとっては不本意なことといえた。

この図柄を中核にして、中心部の骨格道路の整備、河岸緑道や裏通りの都市デザイン整備、広電の電車だけが走る占有トランジットモールなどなどの構想も生まれた。高山先生を委員長とし、県・市・商工会議所による委員会でプランは承認され、その後数年にわたる事業化検討が始った。この後で述べる賀茂プロジェクトと広島中心部プロジェクトの二本柱で広島事務所がスタートすることになる。

都心基本計画に関して県の担当であった益永さんは、県計画の中で賀茂地域に広島大学の移転を目玉にする計画をいかに実現するかを考えておられたようで、丁度よい所に来られたとばかり、教育大学の筑波移転に関して、企画背景ともどもいろいろ聞きたいということで、訪広時に総務部長に会わせられて筑波の話をすることになったりしたが、土田と土肥さんでは日頃の意見の相違がここに出ることになった。ことに、先に述べたように広島都心部の将来を考えるなかで、都心部にある大学は将来の都市の骨格を考える上で大きな違いとなる。広島大学にしてみれば、東の高等師範・文理大にたいする西の高等師範・文理大としての自負があり、教育大が筑波大として移転整備するのを手をこまねいてはいられないという思いがあったようだが、まちづくりの立場からは、大学本部、工学部、医学部、教育学部などがたとえ分散しているとはいえ、これらが抜けることは大きな損失といえた。しかし市民一般の意見は、年中町なかにデモをかけたり、キャンパスをロッキングしたりするような若者は町として迷惑で、できるかぎり早くどこかへ行って欲しいというものであった。県は地域開発の視点から、市は市民意見に沿って、大学当局は県からの話に乗らなければ将来の大学発展に必要な候補地が県北の三次にしか見つからなくなるというあせりがあった。

しかし、まちづくりの立場から放っておく訳にはいれず、学長への面会を申し入れることもした。当時の学長は飯島先生という医学部出身の方であったが、東大の加藤学長と同様の気概をもっておられ、土田にも会い、またこちらの意見にも理解を示していただけたが、残念ながら事態はもっと先にいっているということであった。後に名古屋大学の学長になられた。

あれこれあったが、賀茂地域の中心西条町への移転にあたっていろいろ助言が欲しいということで、西条町長以下に引き会わされることになってしまった。キャンパスプランは、大学の中にしかるべき組織をつくり、その長に高蔵寺ニュータウンでご一緒し、教わることの多かった津端さんが来られるとのことで、土肥さんはなおのこと大きな関心を持たれたようだ。

東京に戻り、皆の意見を求めたところ、やってみたいという意見が多く、土田は反対、水口は消極的、矢嶋は事務所マネージメント及び、継続中の筑波から離れられずということで、結論は土肥さんがチーフになって目配りをしてくれること、西条町の現地に事務所を設け、そこで作業をすること、大学キャンパスは大学に任せ、受け入れ側の手伝いに徹することという条件をだし、皆の希望を受け入れ【 賀茂地域の大学を核にした地域計画をたてる 】ことになった。土田は、広島市にはたびたび行ったが、西条町には全く行かず、現地事務所の様子を見に行ったのは1年以上たってからだったと思う。それにしても町の若手スタッフと一緒によくやったと思う。

小出、角田、高山、途中から外国遊学から日本に戻ってきた玉田、広大の塚本、三菱総研から借出した都立大出身の友人の鈴木(誠一郎)などが、現地のまちの中にあった森林組合所有の元幼稚園舎借り、ここを事務所兼一部宿舎にすることにしたのであった。ここで合宿スタイルで仕事を始めたのが賀茂分室であり、広島事務所の前身であった。賀茂分室というのは、当初、賀茂研究学園都市という仮名称が県によって与えられていたからであるが、西条町を中心とする一帯が賀茂郡であり、賀茂地域とも呼ばれていたからである。

広島大学移転に伴う西条町(現東広島市)の都市計画的なお手伝いは、その後事務所を転々としながらしばらくつづいた。この梁山泊ぶりは後にまた語られると思うので省くが、この頃になってようやく土田も東広島市におもむき、市のスタッフとも飲み交わすようになった。賀茂分室は徐々に分解し、角田が中心の小さな部屋となった。

賀茂分室は、広島市に事務所を設けて広島事務所になり、最終的には東京から出かけていた連中は東京に戻ってきた。他から手伝いに来ていた連中は各々の所属する研究機関や大学に戻った。が、東広島市の相談には依然としてのっており、費用を節約するため、小振りなマンションを借りて、小出を中心にここで仕事をしていた。

一方の広島都心基本計画は一年の期間だったが、凡そ2年で報告書にまとめることになった。市の企画部長には随分と強く指摘したのだが、案の定、広大移転が本格化すると市はあわてだし、市内あるいは隣接町の候補地をいくつか大学に示したが、時すでに遅く、大学はすでに移転を正式に決定していた。土田の意見は、市内にいくつかある大規模敷地のうち移転が確定している用地(刑務所)やいずれ移転することが見込まれる工場を優先的に取得することで、タコ足のキャンパスというよりも、学部・研究所群の間に住宅地その他の一般市街地があるという欧米型大学都市を提案していたのだが、学長はその案を評価しつつ将来的な担保がないということで難色を示された。ところで、県などから大学の跡地は何にすればよいかと聞かれたとき、私だったらまた大学を誘致すると皮肉っぽく答えたのだが、結局工学部の跡地には県立大が入り、本部跡はいまだに最終的絵姿が実現していない。

土田はその後【 播磨内陸都市圏構想 】なるものに手を染めていた。これも土肥さんがからんでいたが、総合計画センターを主宰しておられた片桐さんの仕事を手伝うことになった。播磨内陸には中国縦貫道が近々開通する予定で、ことに東播地域で乱開発が行われようとしていた。これを抑える手だてを考えることが使命であったが、地域整備マニュアルとして、土地利用適合分級による土地利用診断を行おうとするものであった。水口は広島湾口にある似島の計画をまとめた後に参加することになったが、この土地利用分級の方法は水口の独擅場ともいえる。松波が地元の町の計画を手伝い、片桐さんのスタッフであった田村がいつの間にか都市環境研のスタッフになって、これも地元の町を歩き回っていた。のちに福沢(宗道)と事務所をつくり、そこで仕事をマネージメントするかたわら、地元武蔵野市で介護関係の仕事を手伝っている。

この仕事を通じて関西に多くの友人・知人を得た。中でも兵庫県企画部に、京大の大学院を出た鳴海さんが入られ、県の他のスタッフが地元の市町と接触している中でわれわれと接触をし、他大学の先生方との段どりをとるなどで、共同研究をしたようなものである。後に阪大の先生になられたが、今日まで友人であり先生でもある。このとき教えていただいた諸先生に、神戸女学院大学の矢野先生(植物学)、大阪市大の藤野先生(地質学)、大阪大学の中世古先生(地形学)などがおられる。さらに東京では農用地の土地分級に詳しい農学系の研究者からも教えを受けた。他分野の先生から教えを受け、学問上のコラボレーションをすることはなかなか楽しい。

話は飛び飛びになり、時も多少前後している(と指摘された)が、40年をそう正確には覚えていられない。多少の修飾はあるかもしれないが、記憶の鮮明な部分が強調されているということもあるだろう。いずれにせよ、指示された字数を大幅に超過した。もう一つ、なぜ都市環境研究所の英文ロゴをURDIとしたかについて語り、ついでに都市デザインとの関わりについて記そうと思っていたが、とりあえず打ち止めにする。